あの夏のアンコール
 今さら仁王くんにそれを求めようなどという考えは当の昔に諦めてしまっていたのだけれど、それでも、挨拶くらいはまともに出来ないとこれから先、仁王くん自身が困るに違いない、さてどうしたものだろう。そんな不必要でおせっかいじみたことをふと思いついてしまったのは、空気が動いたのをこの背中が感じ取ってしまったからだ。
「なんです」
「ばれたか」
「当前です」
 ふうんでも、ほおでも、へえでもない、相槌と受け取るには曖昧でぼやけすぎた声の後で、元いた位置に体を戻したのだろう、布のこすれるような音が伝わった。行儀が悪いなどと言っても仕方がない。だから、言わない。彼にしてみればそれは、言われたとしても痛くも痒くもないことなのだ。だとするならば、そんな無駄になると分かりきっている一言を口にしようとは思えなかった。
 それでも。そこまで自覚しているにも関わらず思いついてしまうのは、仁王くんの行儀が悪すぎるせいだ。
 背中越しの短かすぎるやり取りの後に再び訪れた沈黙の中で、反比例するように音が溢れる。それは夏の終わりにしがみつくかのようにやかましく鳴く蝉の声だったり、時折通りすぎる車のエンジン音だったりして、決して無音の世界にいるわけではないのに、それなのに、やけに静まりかえっているように思えて仕方ない。

 なにが足りていないのか。
 それを理解できないほど自分はばかではないと自負している。

「それで、どうしたんです」
 だから、指に挟んでいたペンを机の上に置いた。小さく響いた音は、仁王くんの耳にも確実に届いているだろうことは、分かっている。それなのに仁王くんときたら、だんまりを決め込んでいるのだから性質が悪い。
 なにを考えているのかを考えることは、それこそ無駄で無意味だ。いや、無駄でも無意味でもないのかもしれないけれど、こちらが考え込めば考え込むほどそれは縺れていく。
 得てしてその絡まりが複雑になればなるほど、大本である仁王くんの魂胆は単純明快であることが多い。
「また下らないことでも考えているんでしょう」
 詐欺師の異名をとる仁王くんの思考の糸を探り、加えてそれを暴こうなどとは、それこそ今さら到底思えない。
 なんでと短く問われる。
「なんでもなにもありますか。あなたときたら約束もしていないのに人の家までやってきて、どうぞと言う前から人の部屋に上がりこんで。挙句の果てには今の今まで一言も話さないでいるなんて。あなたがなんの意味もなくそんなことをするような人じゃないことは、十分に知っているつもりですが?」
「一言くらいは言ったじゃろう。暑いのう、そうですねえ、てちゃあんと挨拶をしたんを忘れるなんて、おまえはいつからそんなに物忘れが激しくなったんじゃ。のお、やーぎゅ」
「仁王くん、それは挨拶とは言いません」
「そうかのお」
「そうです。付け加えるならば、私の名前をそんな間の抜けた音で呼ばないでくれたまえ」
「挨拶うんぬんの付け加えかい」
「揚げ足をとるものではない」
「はいはい」
「はいは一回」
「ほーい」
「伸ばさない」
「お固いのお、柳生は」
「あなたが柔らかすぎるんですよ」
「そうじゃろか」
 そうですよと応じながら振り返った。肩越しの、横目で見たかすれる視界の中で、仁王くんは案の定クッションに肘を埋めて横たわっている。だらしない。正直なところそう思えて仕方ない。着崩した格好も、玄関に置かれている踵を履きつぶしたスニーカーも、その姿勢も全てがだらしない。
 赤井くんあたりがこの場にいれば、そんなことないだろうというような言葉を、彼らしく、けれどやはりだらしないと感じられてならない口ぶりで横から口を挟んでくるのだろうが、決してこの先もそれらに慣れることは出来ないだろう。だらしないとため息と共に苦言を吐き、軽くいなされてまたため息を吐く。
 不思議なのはそんな自分が容易に想像できるものの、反面、そんな自分の立ち位置を悪くないと思っいることだ。仕方がない。それもまた、それがどんなに自分の性分とかけ離れていたとしても、それが不足していること自体が既に物足りなさを感じる要因になってしまっているのだから。

 仁王くんが隣にいることを求めているのではない。
 彼と、あの場所にいることを求めて止まないのだ。

「それで、なにを企んでいるんです」
 こちらを見上げるポーカーフェイスを読み取ることは出来ない。なにか企んでいるとも取れるし、なにも考えていないようにも思える。それでも一つだけ断言できるのは、彼もまた、こうしていることだけを求めているわけではないということだ。それだけでは隣に並ぶ意味さえない。私と彼はその一点を失くしてしまったなら、隣り合っていることすらが不自然だ。
「だいたいあなたの考えることは単発すぎる。もう少し持続性のある有効打は思いつけないのですか。お互いを入れ替えるなどという奇襲は確かに意外性があって相手を混乱させるには十分すぎる効果がありましたが、使えるのは一度きりです」
「なんの、話じゃ」
「だから、仁王くんが考え付いたであろう次の詐欺的行為についてですよ」
「次の、なあ」
 肘を外してクッションに顔を埋める。これで仁王くんの表情からなにかを読み取れる可能性はなくなった。構わない。もともとなにかを読み取れるわけでもないし、彼は探ろうとすればするほどその本心を読まれまいとのらりくらりと交わし続ける。それならば思いついた順に投げかけていくだけだ。
「だったらなにをしに来たんです。なにもないのにこの暑さの中、ここまで来るような人じゃないでしょう」
「そうかのお」
「そうです」
「やけに自信ありげな」
「これくらいのことで驚かれては困ります。その程度が分からなくては、あなたとダブルスなんて組めるわけがない」
「次の、なあ」
「そう。私は一年以上も待つつもりはありませんよ」
「ずいぶんと大きく出る」
「おや、仁王くんの考えは違うと?」
「次の、なあ」
 クッションに吸収されてくぐもった声は三度同じ台詞を吐いて、そして沈黙する。外からは絶え間ない蝉の声が響いて、やはり遠くで車の通り過ぎる音が聞こえた。一台、二台、間を置いて三台。
「ないことも、ない」
 仁王くんが顔を上げた。その顔には不適な笑みが浮かんでいて。
「やっぱりなにか企んでいるんですね」
「聞いたのは柳生じゃろ」
「くだらない内容ならごめんですよ」
「それは聞いてみてのお楽しみじゃ」
「冷たい飲み物でも取ってきましょう」
 長い話になるかもしれない。立ち上がる。
「暑いのお」
「空調は入れないでください。体に悪い」
「はいはい」
「はいは一回」
「へーい」
 思わず見下ろし睨めば、追い出されるように手のひらを振られる。ため息を一つついてきびすを返す。この状態の彼になにを言っても彼自身はなんとも思わないことは知っている。
「のお、やーぎゅ」
「なんです」
「おまえもたいがいに詐欺師やのお」
「失礼な。仁王くんと一緒にしないでくれたまえ」
 咽喉を鳴らして笑う声を聞きながらドアノブを捻る。その瞬間、背後の窓からゆるりと風が通り抜けたから、大きく開いた扉はそのままにしておいた。夏の終わりの風だとしてもこうしておけば少しは暑さがまぎれるかもしれない。

 求めているものは全てを掻き消す大歓声。
 彼の隣にいてこそ得られるあの緊張の一瞬。
 戻ってきたなら今度はどんなに突拍子のない作戦を聞けるのだろうか。
 そう思いながら階段を下りる。


 ――― 全てはまた、あの夏のために。