静寂は突然破られるものと、相場は決まっているけれど。
例えば、昼休みの始まりでも終わりを告げるのでもない不自然なチャイムが鳴って。「日野、日野香穂子。今すぐ音楽準備室まで来るように」なんて、金やんの面倒そうな声が全校に響きわたるのを聞くのは心臓に悪いし。例えば、リリがいきなり目の前に現れて。「香穂子、日野香穂子!久しぶりなのだ!我が輩、またお前に会えて幸せなのだ!」なんて言われたら嬉しいけれど。でも、その後に、「我が輩、少々……いや、とても困っているのだ!お前だけが頼りなのだ!」とか捲くし立てられそうで、それはそれで怖い気もするし。
でも、それもこれも、こんな終わり方に比べればよっぽどマシな気がしてならない。
耳元で聞こえた確かな舌打ちに吐いて出そうになるため息を押し殺し、やがて聞こえてきた騒がしい足音に心の中で愚痴を言う。誰だか知らないけれど、こんなタイミングでここに来なくてもいいじゃない。
それから、運の悪い足音の主に同情した。
誰だか知らないけれど、今、ここには来ないほうがいいと思いますよ。顔を見せたが最後、屋上は誰のものでもないとかそういう言い訳も通用しない人の、ブラックリストに載っちゃいますよ―――あからさまに何かされるわけじゃないでしょうけど、けっこう根に持つタイプですよ、怖いですよ、と。
案の定、見上げた顔は眉間に皺が寄っている。それでも肩にかかった髪をかき上げたのは、彼なりの気持ちの切り替えなのだろう。
足音はみるみるうちに近付いて、彼はきゅっと口元を引き締めた。
ばたんと音を立てて屋上の扉が開く。
「柚木!」
「ひは、ら、せんぱ、い?」
大きく開いた扉の向こうから足早に歩いてくる火原先輩は、普段からは想像もつかないような真剣な表情で、
「柚木」
その剣幕に圧倒されたかのように、きれいに微笑むはずの彼の口元は、ぽかんと緩んだ。
「火原……?」
「柚木」
「うん、なんだい?」
「あのさ、柚木、」
火原先輩の喉がごくりと鳴って、私も息を飲み込んだ。それなのに、
「火原、落ち着いて。どうしたの?」
さすがと言うか、なんと言うか。たった一言、二言を交わすだけの時間で、彼はあっという間に一人で落ち着きを取り戻し、
「何かあったの?」
力の入った先輩の肩を、とん、と叩く余裕すら見せる。
私はと言えば、
「ほら、言ってくれないと、分からないよ。一体、どうしたっていうんだい?」
「柚木……」
先輩がぎゅうと手を握り締めるのと同じように手に汗握り、ゆっくりと口が開かれ出てくる音を今か今かと固唾を飲んで待ち構え、
そして―――
「俺と柚木って、親友だよな?」
その瞬間、再びぽかんと開いた彼の口を、火原先輩は見ることは出来なかっただろう。出来ることなら見せてあげたかった。彼のあんな顔は、滅多に見られるものじゃないから。目を瞑ってしまうのではなくて、私みたいに目を丸くすれば良かったのに。本気でそう思った。
その証拠に、
「……火原」
驚きの色を呆気なく消し、少しだけ目元を和ませて、
「寂しいな……」
「え……?」
先輩が目を開けたときにはもう、
「そう思っているのは、僕だけだったのかい?」
僅かに視線を落として素直な人を適度にからかう余裕が、彼には戻ってしまっている。
「あ、えっと、柚木、あの、」
「冗談だよ、火原。今さらだろう?」
先輩だろうと、そうでなかろうと結局は、彼の計算通りに事は進んで、
「だよ、な……そうだよな!」
丸く収まってしまうのだ。
もったいない。
こんな風に彼を驚かせることが出来るのも、喜ばせることが出来るのも、火原先輩だけなのに。その表情を見ることが出来ないなんて、ほんとうにもったいない―――。
うん、うんと二度頷くと、来た時と同じように慌しく先輩は背中を返した。開けたままになっていた扉の前で一度だけ振り向いて、
「あ、邪魔しちゃってごめんね、日野ちゃん」
それから、
「ありがとう、柚木!」
照れくさそうに、でも、はっきりとした声でそう言うと、騒がしい足音を立てて走り出し、やがてそれは小さくなって、消えた。
「ありがとう、ねえ……」
再び訪れた静かな空間に、皮肉な声が落とされる。
「なにがしたかったんだか、あいつは」
ふん、と鼻で笑う音がする。どんな顔をしているんだろうと少し気になったけれど、敢えて確かめることはしない。意地の悪い顔なら見飽きるくらいに見ているし、火原先輩が浮かべたような照れ臭い顔なら、誰かに見られたくはないだろう。もしかすると、私には見せてもいいと思っているかもしれないけれど、だったらなおさら、見ないでおこうと思う。天邪鬼な人だから、すぐに強がる人だから、私が相手でもきっとすぐにポーカーフェイスを装うことは簡単に予想がつく。こんな機会は早々ないのだし、もう少し余韻に浸っていればいい。
「良かったですね」
秋晴れの空を眺めながら言う。
「……それはどういう意味かな、日野さん?」
こういう言い方をする時の彼は、一見、温和で柔和な笑みを浮かべているけれど、その実、下手なことを言ったらただではすまさないよ、と含みがあるのだということは、もうよく知っている。
けれど、もう返答には困らない。
「だって先輩、すごく嬉しそう」
思ったことを口にしても大丈夫だということも、知っている。
「先輩が嬉しそうだと、私も嬉しいですし……だから、」
「だから、なに?」
だから、素直に告げた。
我慢が出来ずに見上げた顔は、きゅっと眉が潜められていたけれど、
「良かったですね、先輩」
もう一度繰り返せば、
「……お前も随分と生意気な口をきくようになったじゃないか」
彼は、口の端を上げて、「なあ、香穂子」と。満更でもなさそうな顔をして、笑った。