密やかな午後に滴る青インク
 聞こえなかったわけではない。背後で扉が開いたことも、そして静かに閉められたことも。なにを持ち込んだのかは知らないが、重そうな荷物が床に下ろされた音も、しっかりと聞こえていた。
「遅いわ」
 振り返らずに言う。
「遅すぎる」
 今日、この扉が外側から開かれる理由は、ただ一つしかなかった。
「どんだけ待たせれば気がすむねん」
 そして、扉の前に立つべき男は、ただ一人しかいなかった。
「最低でも二年や。お前がけつ捲くってとんずらこきよったせいで、二年は遅れた」
 目新しい報告のない資料をめくる。この一年で紙面から黒が消えた。聖が消した。青い墨はインクというのだそうだ。墨に比べて保存状態に気を使わずとも数十年は劣化が遅いと聞いて使い始めたが、それも皮肉に思える。インクごときの変化を喜んでいる段階では、いまだない。もっと違う方向で変わっていかなければいけないのに。
「なんとか言え。だんまりやったらいらんで、役立たずを置いとくほど余裕はないしな。今やったら荷解きせんでもええし、面倒も少ないやろ、なあ、」


「ハヤト」


 うん、と懐かしくも実直な応えが聞こえる。
「相変わらずだね、聖さんは手厳しい」
「あほぬかせ、おれごときどっこも手厳しいことあらへんぞ」
「……だろうね、聖さんは相変わらずだ。今さらでも無理強いをしない」
「なんやそれ、ハヤトを引っ張らせたんはおれやで」
 また、うん、と小さく聞こえた。
「知ってる。でも、ここに来たのはオレの意思だよ、聖さん」
「やったら、さっさとこんかい。ほんまに遅すぎるわ」
「うん」
 ジャリやあるまいし、うん、とか言うのから直さんといかんか。
「だからさ、聖さん」
 日の本の頂点にたつ男が、うん、とか言うてたら格好がつかへんしな。
「こっち向いてくれよ、聖さん」
 書類を閉じて、立ち上がる。がたりと椅子が鳴った。

 振り返る。

「あれ、ちょっと老け込んだんじゃないの?」
「誰のせいや、誰の」
「ごめん」
 照れ笑いの顔を見てほっとした。
 うん、でええか、うん、で。とりあえず。
 変わっていないことに、今は、満足を覚えた。