ルージュの紅より、ただあのひとの
「さむいさむいさむいさむいさむい・・・・・・んでこんなにさみいんだよ、」
 ばかやろう、と吐き捨てるように言えば、ほんとですね、と細い声が聞こえた。
 ナツが俺の悪態に怯えた素振りをみせなかったのは、そんな気力もないからなのか、もしくは俺の声に力が入っていないからか。多分そのどちらもが原因なのだと思う。
 雨は嫌だ。土も草も木の枝も、しめってしまって役に立たない。俺は自他共に認める天才的な火起こし職人だけれども、こんな中じゃどうすることもできやしない。
 突然の雨。偶然に見つけた岩は良い具合に張り出していて、雨を遣り過ごすには都合が良い。まだしばらくの間は降り止むことのないだろう雨粒を、全てではないけれど遮ってくれる。けれど、そのスペースは狭すぎて、背中に触れた岩肌から少しずつ、確実に体温は奪われていく。このままいつまでもこうしていたら、俺も、ナツも、そのうちに凍え死んでしまうのではないかと思った。
 片方ずつ、左右の手のひらで反対側の甲を擦りながら、ナツは時折白い息を吐き出しては指先に吹きかける。一言も喋らないけれど、現れては消えるその白い靄が、寒い、寒い、寒い、寒い。そんな風に言っているように思えて仕方なかった。


 薄暗いモノトーンの世界の中で、ナツの指先だけが、赤い。


 ほれ、と目の前に現れた蝉丸さんの手のひらの意味が、さっぱり分からなかった。
 なんだろう、と思っていたら、ほれほれ、と手のひらは揺れた。まさかカツアゲ、と一瞬頭を過ぎったけれど、きっと違うだろうと思い直す。最近の蝉丸さんは、昔に比べれば少しだけ、ほんのちょっとだけだけれど、意地悪が少なくなった。それに、私を相手にカツアゲなんてしても意味のないことを、蝉丸さんはよく知っている。
 私は、なにも、持っていない。
「さっさとしろバカナツ」
 別に怒鳴られたわけでもないのに目を瞑ってしまったのは、条件反射みたいなものだ。今度はなにを言われるんだろう、ぎゅうっと目を閉じて、覚悟を決めた、―――のだけれど。
「ちっちぇえなあ、なんかの冗談だろ、これ」
 感覚のなくなってきていた指先に感じた何かは、次第にはっきりとした温度になった。
 慌てて目を開けた先に見えたのは、勘違い、なんかじゃなくて。
「ていうか、冷たすぎ。女ってなんでこんなに冷たい手してるわけ」
 私の顔の前で、蝉丸さんの手が、私の指をぎゅうぎゅうと握っている。
 なんだろう、これ、と思った。
 怖いとか、恥ずかしいとか、そんな風には少しも思わなくて。とにかくなんだか、不思議な気持ちだった。
 蝉丸さんの手がゆっくりと動いて、くそばばあがさ、と言った。
「くそばばあがさ、こんな感じの手だったわ。確か」


 くそばばあ、と口にする蝉丸さんは、いつも、痛いのを我慢するみたいに笑う。


「お母さんの手、冷たかったんですか?」
 俺が、くそばばあ、と言うたびに、ナツは、お母さん、と言い直す。そんな良いもんじゃない、と何度言っても変わらない。ナツの母ちゃんは、俺のくそばばあとは違って、それは良いもんだったんだろうし、ナツの口から、くそばばあ、なんて言葉が出てくるのはちょっと想像できないから、最近は言いたいように言わせておくことにしている。
「あいつは家で大人しく子供の面倒みてるような女じゃなかったから、いっつも家にいないわけ。そのくせ、ストーブは危ないから使うなーなんて言って、自分はふらふら外を遊び歩いてさ」
「はい」
「んで、俺は仕方ねえから、部屋の隅っこで毛布被ってんの。浜松って寒いんだよ」
「海の近くだからでしょうか」
「んなこと俺が知るわけねえだろ。とにかく寒いんだよ」
 ひい、と息を飲む音が聞こえて、ナツが俯いた。自然と視線を下に向けた先、ナツのつむじの下で、俺の手の中にすっぽりとおさまっている小さな手を、まじまじと見てみる。
「こーんな手だったのかねえ、あのばか女の手も」
「あの、きっともっときれいな手だったと思います。私の手、かなり荒れているので」
「そういう意味じゃねえよ」
 するりと逃げていきそうになる手に、もう一度力を込めた。


 汗ばんでいるのは、俺の手のひらなのだろうか。それともナツの、だろうか。


 不思議だ、すごく不思議だ。蝉丸さんと二人きりでこうしているのは、嵐くんがいないのだから当たり前のことで、不思議でもなんでもないのだけれど。手を繋いでいるのは、不思議なのだけれど、寒くて手の先がかじかんでいたし、蝉丸さんも同じで、我慢できなかったんじゃないかなあ、と考えれば、ちょっと無理はあるけれど納得出来ないこともない。
「あいつもこんなちっさい手だったのかなあ、って」
 それよりもなによりも。蝉丸さんがこんなに、お母さん、の話をするのは珍しい。そんなことを聞いたら、機嫌が悪くなってしまうだろうし、そうじゃなくても、ただの気紛れだ、なんて言うだろうから、絶対に言わないけれど、だったらどうして、そんな気になったんだろう。すごく、不思議だ。
「酔っ払って帰って来んだよ。すっげえ上機嫌で。真っ赤な顔してよ。玄関開ける前から、蝉丸、蝉丸って人の名前連呼すんだけど、近所迷惑だっつうの。恥ずかしいったらありゃしねえ」
 それでさ、と閉じていた手を蝉丸さんが開く。
「寒い寒い、あっためて。手が死ぬ、て」
 その瞬間、すうと冷たい空気が通り抜けて、私は、私の手がすっかり温まっていたことを知った。
「手が死ぬってなんだよ、ありえねー。どうせなら手だけじゃなくて全部死ねってんだよ」
「そんなこと言ったんですか、お母さんに」
「あったりまえだろ、言いまくってやった。ナッちゃんには分かんねえだろうなあ、こんな感覚」
「うちのお母さんは、いつも家にいたから」
「だろーな。んで、自分で放っぽりだしたガキ以上に真っ赤な手で帰ってくるなんてこともないんだろうよ」
 私の手を支えていた蝉丸さんの手が、するっと外されて。
 そして、ゆっくりとほっぺたに当たった。


 蝉丸さんの指が、手が、触れて。私はようやく、ほっぺたも寒かったことに気がついた。


 指先で触れたナツの頬は、案の定、予想通り、冷たかった。痛々しいくらいに真っ赤だった指先よりも、冷たいかもしれない。
 ちょっと前までは盛大に摘み甲斐のあった頬を覆うように手のひらを当てると、ぴくりと肩が動いた。
「蝉丸さんのお母さん、こんな風にしたんですか?」
「こんな風って?」
「あの、外から帰ってきて、こんな風に、」
 俺の手が当たっている方に、少しだけ顔を傾けて。
「ぴとって、蝉丸さんのほっぺたに、手を、こうやって、当てたんですか?」
 戸惑うように瞬きを繰り返しながら、それでも視線は逸らさずに、恐る恐る、ゆっくりと、言葉を選んで口にする。
「そ。嫌がらせだろ」
「嫌がらせ、ですか」
「やられた方は、やってらんねえっつの。そうじゃなくても寒い部屋でがったがった震えてるところに、玄関開けっ放しで風は入るわ、びたびた冷てえ手で触られるわ」
「こんな風に、ですか?」
 ナツの手が伸びてきて、体温が頬に乗った。
「嫌がらせじゃなかったと、思います」
 寒いからか、緊張しているからか、手のひらを小刻みに揺らしながら、ナツは懸命に喋り続ける。
「それは、蝉丸さんからしてみれば、嫌がらせだって思えたかもしれないけど、でも、」
 けれど、ナツの言葉は、俺の頭の中を素通りしていった。


 ナツが、ナツから、自分から、俺に触ったのは。もしかしなくても、初めてのことだった。


 別に、蝉丸さんのお母さんの肩を持とうとか、そんなことを考えたわけではなかったけれど。
「こんなに暖かいんですよ、きっとお母さん、すごく幸せだったと思います」
 私のほっぺたがこんなに温かいように、少しでも蝉丸さんが温かい、と思ってくれれば良いと思った。
「くそばばあが、そんな殊勝なこと思うかよ」
「きっと思ってました」
「ずいぶん、自信満々じゃないの、ナッちゃん」
 自信なんてない。でも言わなくちゃいけない。それを教えてくれたのは、牡丹さんで、嵐くんで。
「絶対、蝉丸さんのお母さんは、蝉丸さんのことが大好きで、ぴたってするのが幸せだったんです」
「俺のこと、金で売るような、くそばばあだぜ?」
「そんなことありません」
「なんの根拠があって、んなこと言うんだよ。あいつのことなんか、これっぽっちも知らねえくせに」
 それを教えてくれたのは、蝉丸さんだったから。
「お金なんて、関係ないです。だって、世界は滅んじゃうのに。蝉丸さんをこの世界に残すって話を知ってしまった以上、自分が死んじゃうって、分かってしまったんだから。そんなものあったって、なんにもならないのを一番分かってたのは、お母さんで、お父さんで、」
 途中からなにを言っているのか、なにを言いたかったのかよく分からなくなってしまったけれど、それでもなにかを言わなければいけないような気がして、だから、と続けようとした瞬間、目の前が真っ暗になった。
「俺、さみいの大っ嫌いなんだよ」
 ナツ、と耳元で蝉丸さんの声が聞こえた。
 指先とか、手とか、ほっぺたとか。そんな体の一部分ではなくて、全体的に温かいものに包まれていく感覚がしてようやく、真っ暗なのは蝉丸さんにくっついているからで、これはもしかすると、もしかして、蝉丸さんに抱きしめられてるとか、そう言う状態なのかもしれない、と思い至る。
 それでも、どうして、と思いながらも、私はとても落ち着いていて。
「嵐が戻ってきたら、ちゃんと離れてやるから」
 小さく聞こえた声に、思わず吹き出しそうになるのを、必死で堪えた。


 変な蝉丸さん。そんなの気にするなんて、ぜんぜん蝉丸さんらしくない。そんなことを思った。


 一人で毛布に包まっていたあの頃。俺は帰ってくるかどうかもわからないあのくそばばあを待っていることしかできないガキで、指の長さも、手のひらの大きさも、あのばか女の方が大きかった。
 蝉丸、蝉丸、と騒ぎながら帰ってきて、べたべたと人に触って。そうして俺の体温を奪うだけ奪った酔っ払いに、どんなに抵抗しても仕切れずに抱きつかれ、すっぽりと腕の中におさまってしまっていた俺は、それだけ小さかった。ようするに、そういうことなんだろう。
 勢いに任せて引き寄せたナツは、あの当時の俺がそうであったように、小さく、無力だ。
 けれど、温かい。
 バカナツが偉そうに言ったことを、一から十まで信じるなんてことはありえないけれど、確かにこの体温は離し難い、と思う。
「あったけえ」
「ほんと、ですね」
 赤くなるか、青くなるか。嫌がらせのつもりで言った、嵐、の名前に、はい、とだけ答えたナツに免じて、詳しくは語らないでおいてやることにした。
 酔っ払いで大ばかものなくそばばあは、嫌がる俺にびたびたと触った後で、羽交い絞めにして。


 赤い口紅のはげまくった唇で、俺様に、ぶっちゅうって、濃厚なキスをしたんだぜ。ナッちゃん。