「おはようございます」
背中に声をかける。
書類に視線を落としている新城のその顔が、つまらなそうに、でも楽しそうに、でもないことは容易に予想がついた。
「おはよう」
押せば引き、引いても押し返されることはない。
ちらりともこちらを向かずに返される毎朝の挨拶は、無愛想にも程があると文句の一つも言ってやりたいくらいに無表情だ。決まりきったやり取り、その程度にしか意味を見出せない毎朝の応えに、僕が相手だから、と諦めのような自己満足に浸れるようになったのはいつの頃からだったろうか。
幾度となく繰り返し、いつの間にか気にも留めないほどに慣れてしまったやり取りに、今朝ばかりは納得がいかない気持ちになる。
それはきっと、昔懐かしい行動を西田自身がとってしまったからに違いない。
だから、
「おはようございます」
ぐるりと回って正面に立ち、そうとしか言いようのない朝の挨拶を繰り返す。
「聞こえている」
「そうでしょうとも」
「今日は遅いじゃないか」
「いいえ、逆です。早すぎるくらいでした」
「ふん、飽きもせずに、ご苦労なことだ」
「苦労だなんて思ったことはありませんよ」
「そうだろうな」
この俯いた頭を、落とされた視線を、こちらに向けさせてやりたい。
そう思うのは、きっと。
毎朝のようにおはようと声をかけ続け、ようやく顕だった警戒心を和らげた子猫は、やがておはようと口を開く間もなくじゃれ付き、飛びついてくるようになった。
珍しく目覚めの早かった今朝、久方ぶりに訪れた陽の昇らぬ猫舎で迎えた西田の猫は、まるで西田が来ることを初めから知っていたかのように、あの頃の面影を微塵も感じさせないほどに大きく育った体躯をゆらりと揺らして起き上がり、
(おはよう)
そう囁くかのように耳を擦り寄せてきた。
だから、
「おはようございます」
出会った頃から変わらない愛想なしの足元にしゃがみこむ。
紙を指でつまんで引き下げる。ようやく見えたのが引き上げられた片眉と眉間のしわだったことですら、まったく気にはならなかった。
「おはようございます」
つれない猫には慣れている。
つれない人、でもどうということはない。
「おはようございます」
「顔が近い」
「よく見えて良いでしょう?」
「意味が分からない」
「意味なんてないですよ」
微かに開いて、それでも音の出てこない口と間違いなく呆れたような表情に向かって、何度でも繰り返す。
「おはようございます」
やがて、視線を反らすことを良しとしない不器用な人の口と鼻は、ばかばかしい、と長い息を吐き出して。
「…… おはよう ………… 気は済んだか」
「はい」
西田はそれに満足して立ち上がった。
確認する必要はない。その人の視線は、すでに手の内に戻っているだろう。
「お茶を入れますね」
背中から聞こえた、ああ、とも、うん、ともいえない曖昧な、けれど間違いなく肯定の応えに更に満足して、西田はその場を後にした。