夏、汗、蝉。
 薄っすらと翳った木陰を見つけて、隕鉄がにゃあと鳴く。
 まったく一休みするには、打って付けの場所じゃないか。
 ああ僕の猫は、なんと聡く、利巧に育ったことだろう。
 いやいや、この猫は。まだほんの小さな幼い頃から、賢い子だったけれど。
 僕の呼びかけにはなんの反応も見せないくせに、先輩に呼ばれれば走っていくような。
 強者と弱者を確実に見分けて態度を使い分けるなんてなんてずるがしこ……いやいや、いやいやいや。

 なあにと振り返った隕鉄に、なんでもないよと頷く。
 ととと、と軽い足取りで駆けていって、小さな木陰に寝そべる。
 僕を見上げて、にゃあと鳴く。早くおいでと喉を鳴らす。
 ああ僕の猫は。なんと優しく、愛らしく育ったことだろう。
 いやいや、この猫は。まだほんの小さな幼い頃から、可愛い子だったけれど。
 僕には見向きもしないくせに、千早に駆け寄っては喉を鳴らし、目を細めるような。
 千早に甘えながらちらりと僕を見上げる仕草なんてさながらこあくま……いやいや、いやいやいや。

 そのまま隕鉄を見下ろしていれば、足を叩かれる。
 座らないのと目で問われる。裾を噛んで引っ張る。
 どうしたの、細めた金目をぱちりぱちりと瞬かせる。
 どうしようかなと言えば、焦れたようににゃあにゃあ鳴く。
 仕方ないなあ、腰を下ろせば当たり前のように背中に擦り寄る。
 ぴったりとくっついた背中から、じんわりと隕鉄の熱が伝わる。
 ああ僕の猫は。なんといじらしく、素直に育ったことだろう。
 いやいや、この猫は。まだほんの小さな幼い頃から、純な子だったけれど。
 自分からは近寄ってこないくせに、冷え込む日に限って飛んできて腕の中で丸まって。
 僕が動くと爪をたてて抵抗する様なんてあれはもうただのわがままむ……いやいや、いやいやいや。

 ぶるりと頭を振ると、腕の下の隙間を縫うように隕鉄が顔を覗かせて。
 ねえどうしたのと丸い両目で問いかける。
 額を指で擦ってやれば、気持ちよさ気に目を瞑る。
 僕の体をぐるりと巻き込み、本格的に腹の上に頭を落ち着かせ。
 ほんの僅かな隙間もなくなるくらいに、ぴったりと体を寄せる。

 ああ、僕の猫は、ほんとうに、なんて、
 聡く賢く優しく愛らしくいじらしく素直に成長したことだろう。
 今この瞬間を見逃して、一体いつ幸せを感じられるというのだろう。

 だから ―――――― 先輩、言ってください。

「視界がぼんやりするのがこのぎらついた陽光のせいに思える?それは気のせいだ西田」、とか。
「それはお前あまりに幸せすぎて空気に酔ってしまっているんだろう少し横になるといい西田」、とか。
「お前を盾に日差しを遮っているなんて隕鉄がそんなことするわけがないぞ馬鹿だな西田」、とか。
「お前が動くのを嫌がるなんて少しでも離れるのが寂しいのだろうか可愛いな隕鉄は西田」、とか。
「目の端から頬を伝うその水滴は汗なんかじゃないそれは涙じゃないか泣いているのか西田」、とか。
「お前の気持ちは分かるがそれにしても泣きすぎじゃないのかほらいい加減に泣き止め西田」、とか。
「隕鉄の鳴く声がにゃあじゃなくてにやりに聞こえる?それは間違いなく幻聴だ安心しろ西田」、とか。
「きっと蝉の声がやかましすぎて聴覚神経が弱ってるんだろう直に戻るさ心配はいらない西田」、とか。


 それよりも、なによりも。
 お願いですから、先輩、言ってくれませんか ――――――
「くそ暑い日に限ってへばりつかれてるからって隕鉄の嫌がらせなんかであるわけがないさ西田!」
 ―――――― とか。


 でも、視界の先に現れた顰め面がそんなことを言ってくれるはずもない。
「おい、なんとかならんのか、見ているだけで暑苦しい」
「なんともなりません」
「なにをしているんだ、なにを」
「見たら分かるでしょう」
「分からないから聞いているのだと思わないのか」
「見たままですよ、」
 どろりと世界が歪んで見えるのは、夏とか日差しとか熱気のせいじゃなくて幸せに浸っているからで。
「仲良くしてるんです」
「なんだそれは」
 たまには目からだけでなく、こめかみやら額やら、なんなら体中で涙を流すのも悪くないじゃないか。
「言葉のままです」
「とうとう暑さにやられたか」
 あれやこれやと要らぬことを考えてしまうのはけたたましい蝉の鳴き声のせいで、僕は至って正常だ。
「暑さにも負けない深い愛です」
「末期だな」
 僕を離さない隕鉄は、聡いわ利巧だわ優しいわ愛らしいわいじらしいわ素直だわの、最高の愛猫で。
「最高潮です」
「後は下降の一途だと」
「いえいえ、そんなことは、」
 あるはずもないと繋げようとして、いらぬ思考が頭を過ぎり、そしてそれを打ち消した。
 隕鉄に限って、ずるがしこあくままわがほにゃむにゃ、なんてことがあるわけがない。
 この夏と汗と蝉の季節が終わっても、こうしているに決まっている。疑わしきことはない。
「なあ、隕鉄」
 首筋に腕を回して引き寄せる。小さく呼べば隕鉄は、やはり小さく「にゃあ」と鳴く。
 熱を孕んだ毛がふわりと舞って首筋に張り付いた。
 幸せだ。ああ、これ以上はない幸せだとも。
 けれど、それにしても ――――――

「 あ つ い 」