ながれぼし
 無理や我侭を言うつもりなんてこれっぽっちもなかった。
 どんな剣牙虎が宛がわれようと、そこから始まる付き合い方次第で良くも悪くも転がるものだろう。そう思っていたし、その考えは今でも変わっていない。
 だから西田は、自分がこれから共に戦うことになる剣牙虎を選べるなんて思ってもいなかったし、選べると分かって驚いた後も、無理や我侭を言うつもりはこれっぽっちもなかったのだ、ほんとうに。
「僕は着いていかないぞ。一人で行け、その方が良い」
 その事実を知って真っ先に駆け込んだ頼みの綱は、それが至極当然なのだという顔であっさりとそう言った。
「お前の猫だろう、お前が選べば良い。他人の意見なんて邪魔で余計なだけだ」
 でも、と反論しようとした言葉はすぐさまぴしゃりと遮られた。
「それが僕なら尚更だ。何しろ僕は猫のことを知り過ぎている。しかもそれは、凝り固まり偏った知識だ。お前も動物の端くれなら自分の本能で嗅ぎ分けて来い」
 お前の猫を。
 そう言ったきり、頼みの綱は、手にしていた書に再び視線を落としたから。西田はその部屋を後にするしかなかった。ああなってしまえば、彼がもう何を言っても聞き入れないことは十分に知っていたから。
「だけど、僕の、猫、と言われてもなあ」
 目の前にいる、幼い剣牙虎を前にして西田はぼやく。
 確かに、そう思う。
 確かに虎は、猫なのだ。猫科の生き物であるには違いないのだ。
 けれど、そう思う。
 いくら成獣ではないから、小さく愛らしい様相であると言っても。
「これはどう見ても虎だよ。猫じゃないだろう、猫じゃ」
 既に成長しきった猫よりも大きな体躯。短く小さいが口元を確かに強調する牙。
 これのどこが。
「猫、なんだ」
「子供を餓鬼って言うのと同じですよ、親しみを込めてるだけで」
「ろくでもない奴を馬鹿って言うのと同じですか。餓鬼も馬鹿もひどい扱いですけど」
 斜め後ろからかけられた控えめな声にそう返せば、声の主は笑った。
「確かにそうですね。子供は子供だし、ろくでもないのはろくでもないです」
「虎は虎、ですよね、やっぱり」
「ええ、剣牙虎は剣牙虎です。今はこんなですけれど」
 振り返れば、優し気な声には似合わない風体の男が西田を見る。
 この幼い剣牙虎の世話役とでもいえば良いのだろうか。
 西田と数人に宛がうための虎をこれまで世話し、連れてきた男だ。
「数年で立派な体格になります。強く逞しくなります。きっと、」
 そこで一度言葉を区切って。
 その笑みが無理に呼び出し張り付けられたものに感じられるのは、気のせいだろうか。
「きっと、お役に立つでしょう」
 その声に刹那的な諦めの色が感じられるのは、西田の気のせいなのだろうか。

「どれでも良いんですか」
 ええ、と頷かれて、視線を戻す。
「もう皆さん選ばれましたから。少尉殿が最後です」
 出遅れたか、とは思わない。
 ここに至っても、考えは変わらない。どの剣牙虎を選ぼうと、ようはこの後の付き合い方次第だ。それ次第で良くも悪くも転ぶのだ。そう思う。
 残っているのは三匹。いや、三頭と表した方が良いのか、虎なら。
 甘えるように西田の足元に擦り寄っている幼獣を見下ろす。
「けっこう人懐こいものなんですね」
「まだ子供ですから、警戒心もそうありません。人に育てられた剣牙虎は、人間に好意的ですし、それは従順なものです」
 へえ、と言った西田に、男は、目を細める。
「ああでも、だからと言って使い物にならないなんてことはないですから」
 ご安心下さい。
 その言葉に軽く頷いてから、視線を次に移す。
 足元で咽喉を鳴らす剣牙虎は、そのまましたいようにさせておく。
「ああ、あれも子供だから仕方ないのかな」
 少しばかり離れたところで体を丸め、目を閉じて眠る小さなものをさして言えば、男は苦笑いの表情をした。
「少々疲れが出たんでしょう。何しろ今日は一日、引っ切り無しに人の出入りがありましたから。これまでこんなに多くの人間と接することもありませんでしたし、まだ完全に人に慣れているわけじゃありません。毎年、何頭かはこんな状態になります」
 さもありなん。
 そう思って見ていれば、男は一歩前に足を踏み出して。
「起こしましょうか」
「いえ、そのままで」
 西田は軽く手をあげて、それを制す。
「眠っていても起きていても、僕にはそれで剣牙虎の良し悪しが分かるわけじゃありませんし、それに」
 僅かに首を上向けて、男を見る。
「使い物にならないなんて、決して思ったりしませんから」
 使い物にならないのは僕のほうかもしれないし。
 軽口を叩いて、男が安心したように笑ったのを見届けると。
 さて。西田は、三度視線を移す。

 人に限らず、あらゆる動物には本能があって、無意識にそうすることがある。
 無意識とはすなわち、潜在的な意識下で確実にそう思っていることに他ならず。
 西田は自分がそうしたことを、無意識だとは思っていなかったし、むしろ逆に、意識的にそうしたのではないかとさえ思っていた。
 意識的に剣牙虎を認める作業の最後に、この一頭を置いたのではないかと。
 西田がこの場所に足を踏み入れたその瞬間から。
 片隅に伏せたまま、ぴくりとも動かずに。
 甘えた鳴き声も、眠そうな鳴き声もあげずに。
 ただ小さな牙を備えた口をひたりと閉じ。
 熱いのか冷たいのか判断は出来ないけれど。
 西田を見据える丸い両の眼は、逸らされることがない。
 まるで僕が観察されているみたいだ。
 幼虎を見て西田はそう思う。
 子供の癖に生意気だな。
 品定めでもしているつもりかい。
 お前と共に戦場を駆けるに見合う男かどうか。
 僕がそれに足る男かどうか、見極めようとでもいうのかい。
 微動だにせず、一声も発せず、視線を逸らさずに。
 それとも、そうだな。
 ほんとうは、臆病心が勝って動けないんだろう。
 鳴かないんじゃなくて、鳴けないんだ。
 視線を逸らしたら負けるとでも思っているんだ。
 強がっているだけで、実は虚勢なんだろう。
 子供の癖に、ほんとうに生意気だな、お前。
 でも。
 幼虎を見て西田はそう思う。
 嫌いじゃないよ、お前みたいなやつ。
 僕は、お前に似た人を一人だけ知っている。
 捻くれてて無愛想で、泣くことを知らない臆病者の癖に虚勢ばかり張っている、ほんとうに、ろくでもなくてどうしようもない人だ、あの人は。
 でも何故か、僕はあの人が嫌いじゃないんだよ。

「鳴きませんね、あいつ」
 近づいても良いですか。
 許諾の頷きを待って、伏せたままの幼子の傍らまで歩み寄り、腰を下ろす。
「やっぱり、鳴きませんね」
「これは利かん気が強いと言うか、負けん気が強いと言うか」
 西田の隣に同じようにしゃがみ込んだ男が、苦笑交じりにそう言う。
「普段は、こんなことないんですが。他のに比べれば少ないけれど、鳴きますよ」
「ふうん、僕が気に食わないのかな」
「いや、そんなことはないと」
 焦ったような声に、西田は笑う。
「すみません、変な意味じゃないんです。構いません、全く」
 西田を見上げるように視線を向けている鼻先に、顔を寄せる。
「お前、僕の猫になるかい」
 その片割れが初めて西田に見せた行動は、つまらなそうに鼻を鳴らすことだった。
「なんだよ、嫌なのか。何が嫌なんだ。猫、か、それとも、僕の、か。どっちだよ」
 それでも、その視線は逸らさずに、真っ直ぐに西田を見ていたから。
「決めました、こいつにします。触れても良いですか」
 返事が返ってくる前に、腕を伸ばして抱き上げる。
「暴れるな、こら、大人しくしろって」
 持ち上げられて体が宙に浮いた恐怖心からか、それとも本能か。
 猫科の動物らしく、その手に小さいながらも鋭利な爪を認めて。
 咄嗟に胸のうちに引き込めば、背中にまで伸びてきて爪をたてる。
「おいおい、勘弁してくれよ。背中にお前の爪痕なんて、洒落にもならない」
 いや、それはそれで面白いか。
 色街の商売妓は客の背中に爪などたてないし、素人相手でも艶本や春画のように背中に爪痕が残るようなことには滅多にならないことを知っている。自分の背中に残る最初の、もしかしたら最後になるかもしれない爪痕が、剣牙虎につけられたものだったというのも、案外に粋で乙かもしれない。
 なにしろお前は、僕の猫なんだから。
 小さく温かく柔らかいものの首筋から背中にかけてを、ゆっくりと撫で下ろす。
 僕は、お前が嫌いじゃないよ。
 好きになりたいから、これからお前のことを教えておくれ。
 お前も、僕のことが嫌いじゃないだろう。
 好きになってもらいたいから、僕のことも知ってほしい。
 これからゆっくりと、時間をかけて、付き合っていこう。
 お前が僕のものになるのなら、僕もお前のものになるから、だから。

 背中から伝わる西田の温度に慣れたのか、それともただ抵抗することを諦めてしまったのか、腕の中の動きが静かになった。
 西田は、目を合わせるように、小さな体と僅かに距離をとる。
「お前、」
 ああ、そう言えば。
「こいつ、名前は何ていうんですか」
 大切なことを聞いていなかったことに、今さら気がつく。いつまでも、猫とかお前とかこいつとかあいつとか呼ぶわけにもいなかい。
「名前はありません。名は私たちにとっても、剣牙虎にとっても特別なものです。名は生き物を縛る呪のようなものだと、そう言われています」
 だから、と言葉を繋ぐ男の表情に寂寥を見るのは西田の気のせいではないだろう。
 短い間とはいえ、いずれ別れが来ることが分かっているとはいえ。
 戦場に送り出すのを前提にしているとはいえ。
「少尉殿がつけてやって下さい。あなたの、猫です」
 この男は、親しみを込めて、猫、と呼ぶのだ。
 剣牙虎を、猫、と。
「初めての仕事なのに、責任重大だな」
 そうだな、どうしようか。
 大きな丸い目を見て思う。
 動物特有で幼子特有の大きく無垢な光りを湛えた眼。
「隕鉄」
 西田は一つ頷く。
「隕鉄だ、お前は。うん、決めた」
 知っているかい。あぐらをかいた膝の上に猫を下ろして、頭を撫でる。
「隕鉄っていうのは、流星のことだよ。あの空から燃え尽きずに落ちてきた隕石の中でも、金属を多く含んでいるものを特にそう呼ぶらしい。お前のその目、まさにあの宙に散らばっているきら星のようじゃないか」
 言葉にしている内に、自分でもこれ以上はない良い名前のような気がしてきた。
 まさに、名前の通りじゃないか。
 僕のところに落ちてきた、ながれぼしのようじゃないか、まさしく。
「僕は、西田、だよ」
 体を前に傾けて、隕鉄の耳元で姓名を囁けば、その体が僅かに身じろぐ。
 もう一度、その背に手の平を当てて、小さく、名を名乗る。
「西田でも、下の名前でも、好きな方で呼ぶと良い。でも、出来れば下の名前で呼んでほしいな。ここには僕をそう呼ぶ人はいないし、あの人でさえ僕を西田と呼ぶんだ。特別扱いみたいで良いだろう、お前は特別なんだよ、隕鉄、お前だけだ」
 お前はあの人とは違う。似ているなんて思ったけれど。
 着いて来てもらわなくて、ほんとうに良かった。
 あの人が来ていたら、もしかしたら。
 同属嫌悪で、お前を選ぶことを反対したかもしれないな。
 無理や我侭を言うつもりなんてこれっぽっちもなかった。
 どんな剣牙虎が宛がわれようと、そこから始まる付き合い方次第で良くも悪くも転がるものだろう。そう思っていたし、その考えは今でも変わっていない。
 でも。
 誰が何て言おうと、例えあの人に反対されようと。
 僕は、隕鉄、お前を選んだよ。
 お前が、僕を選んだように。

「隕鉄、来るか。僕と一緒に」
 西田の問いかけに、それは許諾か拒否か、定かではなかったけれど。
 短く、小さく、それでもはっきりと。
 隕鉄は、一つ鳴いた。