緑の約束
「緑の頃に」
 それは、淡い色合いを孕んだ周囲の気配と、あまりにもかけ離れた明瞭な声だった。
 未だ肌寒さを感じる空気とまったく馴染むことのない言葉を、早咲きの桜が八分に花開いた大木の下に立った西田が、繰り返す。
「緑の頃に、また」
 西田の言うところの、また、がこの八分咲きの花が満開になり、僅かな期間を盛りと咲き誇った後に地に散り落ちて無残にも踏みにじられ、そして葉桜を過ぎた後に確実に訪れる新緑の季節を指しているのではないことに、束の間の逡巡の後、思い至る。
「ずいぶんと気の早いことだ」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
 まだ、一刻もたっていない。
 なんの感慨も覚えることのない長ったらしい訓示を聞き流し、有難いと微塵も思うことのなかった恩賜の某を下賜され、機智の欠片も感じられない言葉があちらこちらに飛び交ってから、まだ一刻とたっていないのだ。
 西田の言う、また、がどれくらい先の緑の頃を思い浮かべてのものなのかは知らないが、この一刻の何百倍、何千倍もの時間が過ぎなければその刻はこない。
 いや、むしろ、
「また、はない」
 その可能性の方がよほど高いだろう。
 いくら皇国が狭小な領土とはいえ、それでも一国だ。
 二度と見えることがないとは言わないが、西田の言う意味での、また、がどの程度の確立で実現するものか改めて考えてみるまでもなく、さして現実的とは思えない。
 この数年、なんの因果か、こと新城に関して言えば常では考えられないほどに近い距離を保って存在していた西田とは雖も、今この瞬間から道を違え、再び同じ立ち位置で顔を合わせることを想像するのは、容易ではなかった。
「またはない、とは思わないか」
「悲観的ですね、先輩」
 これは、悲観と呼ばれる類の要素が含まれる事柄なのだろうか。
 考えるまでもない、否、だ。悲しむべき事由などどこにも存在していない。
「そんなに寂しいですか、僕と離れるのが」
「ばかなことを」
 寂寥を覚えるべき類の要素が含まれる事柄かと問われても、答えは、否でしかない。
 西田も新城も、敷かれた軌道を辿っているにすぎないのだから。
「ばかなことでしょうか」
「当然だ」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
 考えたなら、すぐに分かることだ。
 この閉鎖的な場所で近しい距離にいたという事実を裏打ちする始まりの目的を。
 なにもかもが、最初から決められていた。
 悲しい、寂しい、と思うと思うまいと、初めから。
 けれど、
「つれないこと言わないで下さいよ、僕だけが、」


 寂しいだなんて


 一塵の風が吹いて、淡い世界が揺れた。
 それまで明瞭に聞こえていた西田の声が、ぼんやりとした色彩に溶けるように滲む。
「花に酔ったか、西田」
「そう、かもしれません」
 何時の間にか追い越されたひょろりと高い肩越しに、淡い色彩が広がる。淡い世界の中で、はっきりとした黒い制服だけがその世界に同化することも出来ずに異彩を放っている。
 新城の中で、西田という個人が異分子であったことを、殊更強調するような景色だ。
「こんな感傷的なことを口にするつもりはなかったんです」
 仰ぐように夢幻の色彩を見渡した西田の姿までもが、今にも現を離れ幽玄の世界に捕り込まれてしまいそうな錯覚を覚える新城もまた、花に酔っているのかもしれない。


 そう、これは。
 これは、悲観でも寂寥でもなく、感傷、だ。
 悲観や寂寥など、知らない。
 だからこれは、この花に酔わされて感じる、幾許かの感傷だ。


 そうでなくても感傷に浸る光景を否応なく目にしているのに、それを煽り立てるように薄紅の花弁は視界の隅々までを覆いつくし、花曇りの灰に近い空を、その色に染め上げる。
「悲しいも、寂しいもないだろう」
 近付きすぎたか。
 近付きすぎたせいでこの感情が、この初めから決まりきっていたはずの別離を悲観や寂寥であるかのように錯覚させているのだ、きっと。
 そうに違いない、そうであるとしか考えられない。


 悲観や寂寥であってはならない。
 せめて、感傷であるべき感情だ。


「緑の頃に」
 初めに発された言葉を口にした。この空気と馴染むことのなかった、言葉を。
 この、心を狂わせ、惑わせる薄紅の季節ではなく、何百倍か、何千倍か刻の流れた、緑の頃に。
 新城の口から出たその言葉もまた、このぼんやりとした空間には似合わない明瞭な音となる。
 淡く儚い惚けた色合いではなく、確かな陽光を含んだ陰影のついた緑の濃淡を描く。
 肌寒さではなく、微かに汗ばむ初夏の温度を思い起こさせる。
「緑の頃に、また、なのだろう、西田」
「はい、先輩」
 細めていた目を戻す。霞みかけていた姿が、ようやく鮮明になる。
「緑の頃に、必ず」
 制服の黒色は、やはりこの場所には似つかわしくない。
 その不自然な色彩の明暗に安堵を覚えた。
「ならば、悲観も寂寥も、感傷も不必要だと思わないか」
「仰るとおり、ごもっともです」
 照れたように笑う西田の肩を一つ叩いて、歩き出す。
 またがあるとは限らない、またがない可能性のほうが高いのだと未だに思う。
 けれど、不必要な感情の湧き上がるこの場所から、早々に去ってしまいたかった。


「すぐに、追い着きますから」
「どうだか」
 今、肩を並べて歩いているこの道は一筋だが、この先は確実に同じではない道が互いを待つ。
「待ってなくて良いですよ、ちゃんと追い着きますから」
「安心しろ、僕にはお前を待つつもりは全くない」
「つれないなあ、先輩は、ほんとうに」
「つれるとか、つれないとか、そういう問題じゃないだろう」
「分かってますけど」
 一歩、二歩、足を進めたところで立ち止まった西田を振り返れば、西田のはるか後ろ、歩いてきた道の先にあの桜の大木が小さく、それでも明確にその存在感を示していて。

「卒業、おめでとうございます、先輩」

 ばかなことを、どこに目出度いことがあると言うんだ。
 ここに来た瞬間から、西田と出会ってからも、そして今という刻でさえ尚、この先に待つものも、新城と西田がこの日、別離を迎えることも決まっていたと言うのに。
 つまらないことを言うものじゃない。
 そう言おうとしてやめた。
 悲観でも寂寥でもそして、感傷でさえあってはならないけれど、あの桜に酔わされてしまったがための世迷言だ。
 一度くらいは良いだろう。
 そう自分に言い含めて、口を開いた。

「ありがとう、西田」