嬉しかった、だから、


 こんどはわたしが誘ってみようか
 夏さんが、運転嫌いだとは知らなかった。

 ああ、世良?どうせお前暇なんだろ。遊びに行こうぜバーベキュー。
 家族水入らずだけど遠慮すんなよ。混ぜてやるってしょうがねえから。
 遠慮してほしいんだか、してほしくないんだか。
 相手が夏さんじゃなきゃ、絶対に遠慮しなくちゃいけないところなんだろうなあと思いながらも、一方的に言うことだけ言って切れた携帯を片手に大した支度もせずに玄関口まで降りていけば、見慣れた青いワンボックスが当たり前のようにそこにある。
「よお、暇人」
「っす」
 運転席の窓までぐいと体を乗り出した「むすめ」が、「せら」と笑った。
「久しぶりじゃん」
 差し出された手のひらを軽く叩いたところで後ろのドアが開く。
「お前は、こっち」
「分かってますよ」
 チャイルドシートが固定されたままの後部座席に体を押し込む。
「ごめんね、世良くん」
 ハンドルを握った「嫁」とバックミラー越しに目があった。
「急に呼び出したりして」
「いや、全然問題ないっす。暇、ですから」
「ほーらなー、俺の言った通りだろーが」
 ミラーに映った嫁の目が、ぱちりと瞬きする。
「いやいや、ぜんぜん、ほんとに。娘にも会えたし」
「ねー!」
「なー!」
 夏さんは、助手席から後ろを振り返った娘と俺の間に割って入る。
「ほれ、シートベルト締めろー。しゅーっぱーつしーんこー!」
「おー!」
「おー!」
 仕方ないなあとでもいうように嫁は笑うと、アクセルを踏んだ。

 それにしても。
 夏さんが、運転嫌いだとは知らなかった。
「狭いでしょ、後ろ」
 運転席から、嫁が声をかける。
 運転席に嫁。助手席に娘。
「ほんと、狭いっすねえ。なんで夏さん、前じゃないんすか」
 後部シートに夏さんと俺とチャイルドシートって……間違ってんだろ、どう考えても。
「うるせーなー……俺は運転すんのが嫌いなんだよ」
 へーえ……
 毎朝、意気揚々とクラブハウスに乗り付ける人が。
 軽でドリフトしてやんだって、ガキみたいにやっきになってる人が。
 スピード出しすぎて、バイパスのてっぺんで車体宙に浮かせる人が。
「パパ、だからいったのにー。あたしがせらとうしろって」
「いーんだよ。いーからお前は前見てろ。あぶねえから」
「失礼ねえ、あぶないことなんてないわよ」
「あぶねえだろ、だいたいお前は、センスがねえんだよ」
「だったらパパが運転すればいいでしょ」
「俺は、疲れてんの。分かる?」
「わかんなーい」
「そっかー、わかんないかあ」
 あからさまに「家族仕様」の箱バンは、わき道を曲がり側道を行き、抜け道を通り過ぎて。六国に合流する頃には、車中は意味もなく他愛もない下らない話ばかりが、まるでルーチンワークのように繰り返されるばかりだったけれど。

 今の俺にはそれが、ただただ、ありがたくて―――

 やがて辿り着いた東京湾に面しただだっ広い臨海公園の駐車場は、平日だからこその閑散としたものだった。にもかかわらず、先に降りた俺と娘を放り出して、車庫入れに手間取る嫁のハンドル操作に、夏さんは口うるさくああだこうだと指示を出している。
「せら、せら」
「んー?」
 だらりと垂らしていたベルトの先を引かれて下を向けば、
「まだ、あし、いたい?」
 娘は、じいっと俺の膝のあたりを見て、眉間に皺を寄せる。
「いたいの、はやくなおるといいね」
 小さな手を膝にあてて。ゆっくりと上から下へ。下から、上へ。繰り返し、繰り返し。
 足を痛めている、としか聞かされていなかっただろう娘からすれば、痛めている足は膝の部分だとしか思えないのだろう。
 数ヶ月……いや、数週間、数日前まで確かに。それは、繰り返し繰り返し。

 何度も、何十回も、何百回も。小さな手で。
 夏さんの膝を、繰り返し、繰り返し―――――

「い、てぇなあ―――」
「いたいの?」
 せら、と見上げた娘を抱き上げた。
「あっ……、世良、お前何してんだよ!」
 嫁の車庫入れは無事に終わったのだろうか。目ざとくこちらを向いた夏さんに背を向けて。
「なあ、」
「なーに?」
 俺より僅かばかり高い位置にいる娘の耳元に、これ見よがしに耳を寄せてやる。
 世良、と尖った声が聞こえる。
「俺と、パパと、どっちが好き?」
 娘は俺の背中越しに、多分、いや間違いなく夏さんの顔を見て。
 それから、俺の耳に口を寄せて。
 あのね、と秘密の話をするように。
「パパ」
 小さく囁く。
 それから―――
「そういっておかないと、パパがすねちゃうでしょ」
 意味が分かっているのか、分かっていないのか。
 多分、嫁のいっていることをそのまま真似しているだけなのだろうけれど。
 うふふと俺を見て、笑った。

 おいで、と言われて。この上なく嬉しそうな顔をして、娘は夏さんの腕の中に収まった。
「ほんとに、ごめんね」
「いえ」
 あれは、たかいたかい、なのか。それとも、ひくいひくい、なのか。
 縦に横に斜めに、三次元のあらゆる方向に振り回されて、けれどこれ以上はないというくらいに楽しそうに、甲高く、娘の笑い声が響いている。
「バカだから」
 呆れたような嫁の声が聞こえる。
「知ってます」
「どうしたらいいか、分からないのよ」
「知ってます」
「世良さんのことが、ほんとに好きなの」
 嫁の指しているバカは、夏木さとも、娘とも受け取れたけれど、
 俺は、
「―――知ってます」
 ただ、そうとだけ答えた。

 それにしても。
 夏さんが、運転嫌いだとは知らなかった。
 俺がもし、そういう状況になったなら。夏さんみたいにはならない自信がある。
 だから、
「今度は、俺が誘いますよ」
 俺は言った。
 俺より小さい嫁は、俺を見上げて、
「あの子が、大きくならないうちにお願いね」
 娘と同じ顔をして、うふふ、と笑った。