迷いの発端理由と入道雲
 風が吹いたから、と言ったら、笑ってくれるだろうか。
 部屋を出る時から掴んだままだった携帯電話を、親指の先で、かたりかたりと開いては閉じ、閉じては開きながら世良は思う。
 もしも笑ってくれるなら、呆れるように顔を顰められようが、下らないと鼻を鳴らされようが、構わない。なにをしているんだと、呆然として、それからなにかしらを諦めたように、それでも最後に笑ってくるなら、あの人の頬がほんの僅か緩む、それだけできっと満ち足りた気分を感じられるに違いない。
 風が吹いた。
 切欠はそんな些細なことだった。
 頭の中にふいと浮かんだのは、完全オフのこんな日にもいつもと変わらない時間に起き出す姿。
 カーテンを開ける前から今日のこの晴天を疑いもせずに、最近手に入れたばかりの全自動洗濯機の扉を開いて、大して溜まってもいない洗濯物を放り込み、それから、空いた時間でキッチンに向かうと、僅かな時間で冷蔵庫の中身を吟味して、手暇をかけずに、それが面倒なことだなんて考えは微塵も抱かないまま、非の打ち所がまるで見当たらない朝食を作り上げたなら、
 いただきます
 誰が見ているわけでもないのに律儀に手を合わせ、はっきりと音にしてから箸を上げるに違いない。
 エアコンはつけない。
 その代わり、窓は大きく開いている。
 暑いとは決して言わない。
 ただ、時々吹き抜ける風を、首を伸ばして受け止める。
 ピイ、ピイと忙しなく鳴る洗濯機の呼び出しに、まるでその時間すら計算済みだったのだといわんばかりにお誂え向きのタイミングで箸を下ろし、立ち上がって。どうせ夕方にはアイロンをあてるのに、パンパンと、小気味のいい音をたてながら、皺の一つ一つを丁寧に、神経質に伸ばしながら洗い物をを干している、そんな立ち居振る舞いが、頭の中にくっきりと、はっきりと思い浮かんでしまった。
「どーなのよ、これ、ていうか、俺」
 終わってる、と思う。
 風が吹いたなんて、どうでもいい。
 雨が降ったでも、雹が降ったでも。  例えば、ここではないどこか ――― 南半球のどこかで初雪が降った、でも、なんでも、どんなことでもきっと、彼のことを思った。思わずにはいられなかった。
 末期症状だな、と思う。
 自覚は、ある。
 ありすぎるほど、ある。
 理由なんて、ない。
 なにも、ない。

 ただ、あなたに会いたかった

 電信柱の上、遥か彼方と比べれば十分に手の届く世界、バルコニーの手摺に凭れて、あちらの方を見やる堺の姿が視界に映る。まだ距離はあるけれど、見間違ったりはしない。
 その瞬間、感じたのは落胆。
 それから、一筋の希望。
 ここまで来ても尚、まだ根強く残っていた躊躇いは、すうと吹くこの風に、取り合えず、預けておくことにした。
 腕を持ち上げる。
 こちらには、まだ気付いていない。
 耳に当たる無機質で冷たい感触を、意識的に、無意識のものにして親指に力を込める。
 逡巡のツー音の後に、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「もしもし」
 ああ、末期症状だ。
 ただ

 ただ、あなたの声が聞きたかった

「もっしもーし、世良っす」
「おう」
「堺さん、下見て、下、下」
 大きく手を振る。
 あちらを向いていた視線は、一直線にこちらに下りてきた。
 電信柱の上、遥か彼方と比べれば十分に手の届く世界、バルコニーの手摺に凭れていた体を持ち上げた堺の表情は、けれどぼんやりと霞んでしまって、世良には読み取ることが出来ない。
「なにやってんの、お前」
 話したいことはいくらでもある。
 けれど、音になる言葉は限られている。
 だから、大きく息を吸い込んで、一息に伝えた。

「いや、なんか、いい風が吹いてたんで」