バレンタイン キス キス
 もういい加減に溜息を我慢しようとか押し殺そうとかいう気もなくなったから、盛大に吐いてやった。これ見よがしに吐き切ってやった。
「私は、止めたわよ、一応」
「一応てなんですか、一応て」
「嶋にも予定があるかもしれないからって」
「悪かったですね、予定もなんもなくて」
「いや、いてくれて助かった」
「隊長には聞いてません。黙っといて下さい」
「あら、冷たいのね、嶋本副隊長」
「ちゃかさんといて下さい」
「ちゃかしてる訳じゃない」
「やから、隊長とは話してませんから」
「あら、酷い」
 思わず機長を睨む。睨めば睨み返されて、視線を逸らす。もうこれは条件反射、蛇に睨まれた鼠のようなものだから仕方がない。
「イガさんが悪いわけじゃないんだ、嶋本、」
 逸らした視線を逆に向けて隊長を睨む。左右非対称の目で睨まれたような気がするが、視線は逸らさない。この人を睨むのには慣れてしまった。

 今日は、今日くらいは、さすがに、今日だけは、ないと思っていたのに。
 今日はみかんがあるわよ、なんて無表情で頷きあって、勧めもしてないのに皮を剥きながら。どうして、この人たちは相も変わらず狭い部屋の狭い炬燵で、俺を挟んで座っているのだろう。
 聞きたくないが聞くしかない。聞かなければ終わらない。だから聞く。我慢もくそもへったくれもあるもんか。これ以上のものは吐いたことがないというくらいの溜息を吐きながら。
 不本意極まりないが聞いてやる。


「バレンタインデーの当日に、二人揃って非番に当たった幸運に感謝しながら出かけとったんでしょう。そこまではええですわ。なんで一日の締めくくりに、締めくくらんでも二人でなんでも好きにすりゃええ時間帯に、俺のところに来るんです。納得のいくように説明して下さい」


「イガさんが、」
「違うわ、真田くん、私じゃない」
「ああ、そうだったな」
「どっちだってええですよ」
「よくない」
「はいはい、よくないですねえ。やったら、機長やなくてなんなんです」
「イガさんが聞いたラジオだ」
「ラジオになんか言われたんですか」
「友チョコと言うらしい」
「はい?」
「友達や同僚や先輩後輩に配るのに、三十五個、作ったらしい」
「・・・・・・誰がですか」
「ラジオに出ていた女子が」
「女子、て」
「バレンタインでそうなのだから、ホワイトデーも大変だ」
「・・・・・・それもラジオですか」
「そう、それもラジオで言ってたの」


 なに食わぬ顔で皮を剥いていた機長の手から、橙を取り上げて、そのまま隊長に押し付ける。
「嶋本、」
「ええから、隊長はそれ剥いといて下さい」
「剥けば良いのか」
「白いとこなくなるまで、きれいに剥いたって下さい。話はその後です」
 なにか言いかけたのを無視して、逆に顔を向ける。
「機長」
「なに」
 思わず、ではなくて、故意に機長を睨む。飄々とした顔がこちらを向くけれど、今度は視線を外さない。外すわけにはいかない。
「おかしなこと吹き込まんで下さい」
「別に、私は聞いた話をそのまま伝えただけよ」
「そのまま伝えてどうするんです、後のこともちょっとは考えて、」
「後のことってなに。ホワイトデーは、男性のイベントでしょう」
「語弊があるでしょ、それは。どうするんです、トッキューで三十五個配って」
「良いじゃない、微笑ましくて」
「どのへんが微笑ましいんです」
「そうね」
 楽しそうな素振りも見せずに、機長は言う。
「真田くんが手作りのマシュマロを配り歩く姿を見れるところ、とか」
「それのどこが、微笑ましいんです」
「微笑ましくないらしいわよ、真田くん、どうする?」

 きれいに半分だけ白い節の取り除かれたみかんが移動する。

「それを相談しにきたんだ、嶋本、ホワイトデーまで一月しかない」
 俺の顔はみかんと逆を向く。
「隊長、隊長、だまされてます。女子は知りませんけど、男子はそんなことしません」
「そうなのか」
「そうでしょう、したことありますか、そんな話聞いたことありますか」
「ないな」
「私はしたことあるわよ」
「嘘です、だまされたらあきません。機長が若い時はそんなこと絶対してません、最近の習慣です」
「失礼ね、確かに嘘だけど」
「嘘なのか」
 悪びれもせずに機長は頷きながら、節を取る。
「考えてもみて下さい、女子がですよ、女子同士でチョコを交換して親愛の情を示すのは可愛らしいですけど、トッキューでそれやってどうするんです。気持ち悪いでしょう」
「そうだろうか」
「そうです」
「そんなことないわよ」

 もう一度機長を睨んでから、顔を逆に向ける。隊長を睨むというよりは、きっと懇願する顔になっているだろうと思った。今どうにかしないと、後始末だけじゃなくて最初から最後まで面倒を見ることになるのは、間違いなく俺だ。

「だいたい、バレンタインのお返しがホワイトデーなんですから、今日なんもしてもろてないのに、なにかお返しする必要なんてないんです」

 頼むから聞き分けてくれと思う反面、もう諦めた方がええかもしれんと思いながら言ってみれば、
「なるほど、それもそうだな」
 真田隊長は、あっさりと頷いた。
 そして、その瞬間、小さな炬燵の机に転がった白い部分のなくなったみかんと溜息に、慌てて視線を移せば、つまらなそうな顔をした機長が立ち上がる。
「解決したならそろそろ帰りましょう、嶋にも予定があるかもしれないし」
 非番の一日の締めくくりにあたる時間帯、部屋にいた俺に今さらなんの予定があるというのだろう、それは嫌味か、と思ったけれど、放っておく。帰ってくれるのなら引き止める理由はない。
 先に立った機長と、後ろを着いて行く隊長を玄関まで見送る。
 お休みなさい、と満面の笑みを浮かべる準備をしたところで、
「ああ、そうだ」
 靴を履き終えた機長は、徐に鞄を漁って、
「真田くんと私から」
 靴箱に、小さな箱を置く。
「日本では独自の進化を遂げたバレンタインだが、本来、性別は関係ないらしいぞ」
「これもラジオで言ってたの、お休み、嶋」
「遅い時間に悪かったな」
 きっと間抜けに口を開けているだろう俺を残して、扉は閉まった。


 一人用なのにさっきまで三人がぎゅうぎゅうになって入っていた炬燵に戻って、盆の上に盛られたみかんの脇で、一つだけきれいに剥かれて転がる橙の横に、小さな箱を並べる。
 一体全体、なにが目的だったのだろう。機長が隊長をからかって遊んでいたのか、真剣に一月先のホワイトデーの相談に来たのか。
 それとも、この小さな箱を届けに来たのか。
 隊長をからかおうとした機長の野望は阻止してやった。隊長はホワイトデーに微笑ましい姿を披露することはない。
 そうなれば、残ったものは一つだけだ。
 己の口で言ってしまった。

 ――― バレンタインのお返しがホワイトデーなんですから

 とりあえずは、この小さな箱のお返しを、二人分。
 これから一ヶ月の間に考えなければいけない。
 ただいま、二月十四日、フタサンサンマル。