もしも、もしもの話
 ある朝、突然、無性に真田くんに会いたくなった。だから、真田くんの部屋のチャイムを鳴らした。けれど反応がなかったから、官舎のドアを蹴飛ばしてやった。それでも出てくる気配がないから、仕方なく嶋の部屋に行った。


 嶋の部屋のチャイムを鳴らしてもやっぱり反応はなかったけれど、官舎のドアを蹴飛ばしたなら嶋はきちんと起きてきた。きちんとしていたのは起きてきたという事実だけで、頭のくるくるは見るも無残なありさまだったし、寝ぼけた目を開けようとする力が眉間の皺をいつも以上に深くしていたけれど、とにかく起きてきて、嶋はこう言った。
「隊長なら今ごろ、海っぺりを走ってる頃ですよ」
「真田くんに会いに来たんじゃないわ。嶋に会いに来たのよ」
 私がそう訂正すると、嶋は、隊長が帰ってきはるまでここで待ってたらええですよ、と言った。よく私のことを分かっているのね、と言えば、長い付き合いですから、とつまらなそうな声が聞こえた。


「コーヒーでもいれましょか」
 嶋が聞いてくれたから、素直に答えた。
「コーヒーより炒飯が良い」
 機長、何時やと思ってるんですか、朝っぱらから炒飯なんてありえへん。嶋はぶつぶつ言いながらも冷蔵庫を漁りだす。文句を言いながら、いつもこうやって私の望むものを用意することになるのだから、最初から何も言わずにやればいいのに、と思ったけれど、文句を言わない嶋は嶋じゃないから、これも仕方がないのだ、と思った。


 はいどうぞ、私の前にだけ置かれた炒飯にちらほらと見える青いものを、手渡されたスプーンで弾き飛ばす。
「機長、グリンピースあかんのですか」
「味がないし少量を摂取したところで大した栄養補給が見込めないものを食べる気にならない」
 屁理屈こねとる子供みたいや、と嶋は笑った後に、ゆっくりとした口調でこう言った。
「食べもんは何でも赤、青、黄色の三色が揃ってないとあきません。グリンピースの青だけじゃだめですけど、他のと一緒に食べればちゃんと栄養になります」
 まあ、無理して食べんでもええですけど、と言うから、少しなら食べてもいいかもしれないと思った。


「そろそろ隊長、帰ってくるんとちゃいますか、ほら」
 炒飯の表面に見えていた青を取り除いて、皿の端に寄せた頃、嶋の部屋のチャイムが鳴った。どうして分かるの、と言えば、メールしましたし、と答えが返ってきた。
「どうして嶋の、ほら、と同じタイミングでチャイムが鳴ったの」
 偶然ですよ、なんとなくそう思ったんです、と嶋は言った。真田くんのことをよく知っているのね、と言えば、いっつも一緒にいますから、と何食わぬ顔で答えた。


「炒飯か、美味そうだな」
 入ってきていきなりそう言った真田くんの言葉を予想していたかのように、隊長までありえへんわ、とぼやきながらも嶋は炒飯をもう一皿用意した。
「多めに作ってありますし、全部平らげてってくださいね」
 そうして、そのまま玄関へと向かうから、どこにいくの、と聞けば。
「ヤボ用です、今日は戻りませんから鍵はポストの中に入れといてください」
 そのまま振り返ることもなく、官舎のドアを開けて出て行ってしまった。


 朝もまだ早い時間に真田くんと二人で嶋の部屋にいる。真田くんはあれから、嶋が多めに作っていった炒飯をお代わりして、私は嶋が三色そろえてくれたグリンピースを食べた。食べ終わったお皿を洗っている真田くんの背中を見ながら、ふと思った。
「嶋をトッキューなんかにやるんじゃなかった。真田くんに嶋をとられた気分」
 真田くんは振り返りもせずに、こう言った。
「例えイガさんでも嶋は渡せない。あれは三隊にどうしても必要な人間なんだ」
 三隊に必要なのではない、真田くんに必要なのだ。


 もしも、もしもの話だけれど。嶋が二人いたら良いのに、そんなことを思った。そうすれば、真田くんの隣にも、私の隣にも嶋はいて、真田くんと取り合いになるようなこともないのに。他愛ない、ばかげた想像だけれど、そんなことを思った。
 もしも、もしもの話だけれど。嶋が二人いたならば、私は真田くんがいなくても、真田くんの嶋の部屋には行かなかっただろう。だって、私の隣には私の嶋がいるのだから。そうしたら、炒飯を作ってもらうことも、グリンピースを食べることも、嶋の部屋で真田くんと二人になることも、今という幸せな時間も存在しなかったのだ。


 だから、嶋は一人じゃないといけないんだ。
 そう思ったら、今ここに嶋がいないことが、無性に寂しく思えて仕方がなくなった。