掛け違えた釦の行方
「ばかだ、ばかだとは思ってたけど」
 あの朝、兵悟の部屋を出て、しばらく歩いたところでナオが言った。
 ユリちゃんは、忘れ物をしたと言って兵悟の部屋へ一人戻っていった。それがほんとうかうそかなんて考えもしなかったけれど、ユリちゃんのことだからそんな見え透いたうそはつかないだろうと思ったし、見え透いたうそでも構わないと思った。
 ユリちゃんは知らないことだ。知らなくていいし、知られても困らない。そう思っていたし、それは今でも変わらない。
 でも、
「救いようのない、ばか、だよな」
 官舎へ戻る道、すぐそこの小さな交差点を小走りに折れるユリちゃんの背中が見えなくなる瞬間を待ち構えていたように、ナオは煙草に火を点けて、ふうと一息煙を大きく吐き出しながら、言った。
「ばかすぎる」
 こいつにそんな話をしただろうか、とか、どうしてバレたんだろう、とか。そんなことは考えもしなかった。ただすんなりと、分かったんだな、そして、知ってるんだな、と思っただけだったし、
「ナオには言われたくないよ」
 自然と口を吐いて出た私の言葉に、ナオは返事もせずに煙を吸い込んでは吐き出した。

 双子だからとか、兄妹だから、とか。そんなことは考えなかった。
 双子だからとか、同じ境遇、環境で育ってきたから、とか。そんなことも考えなかった。

 考えなかった、と無意識の内に思い込んでいた、のかもしれない。

 視界の全てが白に覆われた病室で、これでもかと漂白された白にくるまれたナオを見下ろしながら、思った。
 背丈だけはにょきにょきと伸びたナオを見下ろしたのはどれくらいぶりだろう。
 赤く染めた目を一点から逸らさないナオに、かける言葉など探しても見つけられない。見つけられないけれど、口が重くなるわけでもない。
「母さんたち、明日の朝、来るって」
 枕元に立った瞬間に、するりと言葉は出た。
「あんまり無碍にするんじゃないよ」
 そのときナオに言い聞かせるべき、大事なこと、だったけれど、
「心配してるんだから …… さ」
 核心からは遠すぎる言葉を選んだことは、気がつかない、では済まされなかった。

 双子だからとか、兄妹だから、とか。そんなことは関係ないと思っていた。
 双子だからとか、同じ境遇、環境で育ってきたから、とか。そんなことも関係ないと思いたい。

 思いたい、と意識的に思い込もうとしても、思えないことが、ここにある。

 返事を待つことなく、病室を出る。
 予想以上に足音の響くリノリウムの床を、慎重に歩く。
 神林兵悟、の札のかかった病室に足を止める。
 その扉が閉まっていことに、ほんの少しの安堵を覚える。
 札を今にもなぞろうとしていた指を、戻す。

 慎重に、ため息を、吐く。細く長く、息を吐き切る。

 足音を忍ばせて、歩き出す。
 核心も、核心からは遠すぎる言葉も、見つからない。
 言葉を交わせば …… 交わせたなら、返事を待ってしまいそうだった。

 エレベーターのボタンを押す。なかなか来ないことに苛立ちを感じる。
 扉が開く。1、の後に、閉、を連打する。反応の遅いことに腹がたつ。
 ようやく動き出した閉塞的な箱の中で、Gが、重くのしかかる。
 頭上の電光掲示を睨み付ける。早く、早く、と気持ちだけが急く。
 私にとっては、必要以上の遅さ、で扉が開く。足早に降りる。足音が響く。
 人気のないロビーを通り抜ける。
 救急の裏口の扉を勢いよく開け放つ。

 肌寒い外気と、静まり返った深夜の暗がりに、溜め込んでいた息を大きく吐き出す。



 涙が、こぼれた。



 双子だからとか、兄妹だからとか、同じ境遇、環境で育ってきたから、とか。
 幸運か悲運か、同じ職場で同じ価値観を持って同じ目標に向かっているから、とか。

 同じ人に、惹かれているから、とか。

 どうでも、良い。

「ばかすぎる」
 そう、言えると良い。
「救いようのない、ばか、だよね」
 むしろ核心ともいえる一言を、言えると良い。
「ばかだ、ばかだとは思ってたけど」
 背丈だけはにょきにょきと育ったばかを見上げて、何気なく言いたい。

 そうして、あいつは私を見下ろして言うと良い。
 こいつにそんな話をしただろうか、とか、どうしてバレたんだろう、とか。そんなことは考えもせずに、
「スミレには言われたくねえよ」
 ただ、私には分かるんだな、そして、知ってるんだな、と思いながら、煙草を吹かしていると良い。

 私の掛け違えてしまった釦とは似ても似つかないだろうけれど、
 あいつの …… ナオの釦は、おさまるところにおさまってくれると良い。
 
 振り返ることなく、歩き出す。
 暗闇に、足音だけが、響いた。