赤い日
「嶋、明日の朝は十五分早く出るよ」
 助手席に座ったきり毎日変わることのない窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めている嶋に声をかける。時折あくびを噛み殺した後に、首を左右に倒しては小さな音をたてる嶋を見て、ああ、疲れているんだな、と思った。
 窓枠に肘をついたまま、は、と小さな疑問の声をあげてから、ああ、と今度は肯定の音が聞こえる。
「赤い日か、忘れとったわ」
 カレンダーの赤い日は普段にない海難も多いのに、それを忘れてしまうくらいに嶋は疲れているんだな、と思った。
「国民の権利とはいえ勘弁してほしいなあ、あれだけは」
 嶋はスムーズな車の流れを見て一つ溜息をつく。普段は滅多に混むことのない湾岸線。気候の良い秋の三連休初日の明日、大型娯楽施設がその先に控えた羽田までの道のりが朝から渋滞することは容易に予測がついた。


「とろとろしてる中に巻き込まれると思うだけでいらいらしてくるわ」
 お前はよお平気そうにハンドル握ってられるなあ、と言われて、焦っても仕方ないから、と返せば、窓の外を見たままの姿勢で、お前らしい、と笑う嶋の声が聞こえる。
「朝からいらいらするくらいなら、寝ていれば良いよ」
 きっとあっという間に基地に着くから、何気なく繋げた言葉に、外から私に視線を移した嶋が視界の端に入る。
「久しぶりに聞いたわ、それ。前はよお言うてたやろ、寝てもええよって」
 ああ、そう言えば、確かに久しぶりに口にしたかもしれないと自分でも思った。気を遣っていたつもりは最初から無かったけれど、何度言っても一度たりと寝ようとしないこの同僚に、逆に気を遣わせることになっているのかもしれないと思い至って、それから意識的に口にしなくなった言葉。


「他意はないよ。隣でいらいらされるくらいなら、寝ていてもらった方が私の気が楽なだけ」
 そんなことを口走ってしまってから、ああ、これでは嶋と何も変わらないと思った。
 体のバイオリズムが狂ったのか眠気がどうしても消えなかった今朝、私を気遣う素振りを見せずに差し出された缶コーヒーと、私に眠いと言わせる為だけに口にしたのだろう、眠いな、というぼそりとした呟き。
 長い時間を共にしてきたからこそ分かる、彼の素直でない表現方法に隠された不器用な優しさに気遣われて、内心、苦笑をしたのは私自身だったのに。
 今私の口から飛び出した言葉は、まさに今朝の嶋と同じかそれ以下のレベルで素直ではなく不器用なものにしかならなかったから、これでは更に嶋を気遣わせることになる、と心の中で溜息をつきたくなった。


「やさしいなあ、うちの救命士は」
 不意に聞こえた常より柔らかい声に、思わず助手席に顔を向ければ、反対車線をすれ違う車のヘッドライトに照らされて見えたのは、それもまた常にはない嶋の柔らかな表情。
 たった一瞬のことだった。再び暗くなった車内に聞こえたのは、少しばかり強められた声。
「なに見とんねん、前を向け、前を」
 次の車とすれ違った時には既にその表情は普段通りの顔つきに戻ってしまっていた。
「俺を殺す気か。お前と心中する気はさらさらないぞ」
「そんなつもりは私にもないよ。やさしい隊長を死なせてしまったら他の隊員に恨まれそうだから」
 なんやそれ、あほちゃうか、なに笑とんねん。嶋のぼやきを聞きながら、今は素直に笑っていようと思った。


「この三連休をこえたら、年末まで連休はなかったな」
 前に向きなおって、ハンドルを握りなおして、頭の中でカレンダーを思い浮かべながら、確か、と返す。
「連休が終わったら、年末進行に入る前に飲みに行くか。もう随分とお前と二人で飲んでへんし」
 静かな声に、ちらり、と目だけで嶋を見れば、また窓枠に肘をついて外を眺めているけれど、窓ガラスに映った不鮮明な表情はやっぱり柔らかいものであるような気がした。
「そうだね、出来れば非番の前の日に。久しぶりにゆっくりと二人で飲みたいな」
 ほんまやなあ、嶋のぼんやりとした相槌を最後に、車内は再び静けさに包まれた。